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図書館の帰りに藻岩山を見上げ、藻岩山展望台がリニューアルした事を思い出す。
私はクリスマスカップルが大量にいる事を見越し、展望台へラブプラスを持って行きそこで凛子と記念撮影をする事を思いつく。
Q.その行動の意味は?
A.彼女とのデート
Q.ラブプラスは最近全く起動しておらず、彼女とケンカ状態にあるのは必然。果たして蛇足は凛子に対しデートするほどの愛情を感じているか?
A.否。凛子は私の二次元美少女ランクの中では三位より下位にあり、この行為はむしろブログや話のネタとしての要因が強い。
そこにある愛は薄く、よって上の回答は否定される。
私は思いなおし、二次元美少女ランク一位の来栖川芹香嬢の写真を持って行く事を思いつく。
Q.果たして、本当に蛇足は来栖川芹香を愛しているか?
A.長年「俺の嫁」と言ってはばからない来栖川芹香嬢は、間違いなく私の愛する人物に他ならない。
Q.蛇足は最近来栖川芹香の画像をそれほど熱心に集めてはおらず、ゲームもプレイしてない。
「来栖川芹香は俺の嫁」と宣言することにより、一種の自己アイデンティティを構築しているのではないか?
知り合いに毎日のように「赤座あかりが好きです」と公言している者や、
毎日のように好きな二次元キャラの画像を描いている者もいるが。こう言った者もまた、同じように自己アイデンティティ保持のため
「○○が好きだ」と狂ったように繰り返しているだけとは言えないか?
そもそも愛情とは、ただその人が好きな自分と言うアイデンティティを表現する手段ではないのか?
A.物を見て美しい、綺麗だと感じる感情はアイデンティティの表現と離れた位置に、確固として存在している。
例えばミロのヴィーナスやモナリザと言った美術品は、芸術家達はアイデンティティと関係無しにひとりよがりに眺め続けられている。
それは、昨日と今日作品を見る事でその日なりのヴィーナスやモナリザの美しい点を感じ取れるからである。
これは恋愛感情においても同じ事が言える。
昨日と今日で感情を揺るがす事なく、例え年老いて姿が変わっても好きだと言えるその長続きする「美しい」という感情の正体は、
一日一日見るごとに、昨日とは違う新たな美しさを発見できる所にあると考えられる。これが一般的に言う「愛」となる。
私は確かにTo Heartをあまりプレイしなくなったが、今でも来栖川芹香嬢の画像を眺めるたびに心が踊り、胸が熱くなる。
故に、私は来栖川芹香嬢を愛していると考える事が出来る。
Q.では、来栖川芹香の写真を持って藻岩山に行く事は正しいか?
A.それもまた否である。私は来栖川芹香嬢を愛しているが、来栖川芹香嬢はゲーム内のキャラクターである。
それはまさしく、ミロのヴィーナスを持ってデートに出かけるようなものであり、
また私がそれをやった場合、そこに愛情は無く、ただブログのネタとして来栖川芹香嬢を利用する形となる。
私は来栖川芹香嬢に恋をしていても、愛を欲してはならない。またいくら語りかけても、返事を待ってはならない。
それは、彼女がゲーム内のキャラクターであるに他ならないからである。
Q.では、辛い時に嫁から励ましの言葉を貰うのを空想して活力を得る事は否か?
A.それは否ではない。空想の中でゲームキャラを動かす事は想像の自由であり何も問題は無い。
しかしそれはヴァーチャルの世界に逃避し、一時的に安らぎを得ているにすぎない。
こちら側がリアルであり、そこに来栖川芹香嬢は存在しない事をよく考えておかなくてはならない。
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